映画のぼる小寺さん感想文

好きなアイドルが女優になり、初主演映画が公開される事になった。良きファンならここでは「初主演おめでとう!絶対見に行く!映画楽しみ!」という感想を抱くべきなのだろうが、僕はとうの昔に良きファンなどではなくなっている。僕は工藤遥の初主演映画が「青春映画」だと聞き「イケメン俳優との爽やか青春キスシーンなどがあれば、本懐を遂げて死ぬことが出来るかもしれない」という自分勝手で醜い願いを叶えるためにのぼる小寺さんを見に行くことにした。

僕はいつでも工藤ヲタとしての死に場所を求めて彷徨っている。死に切れぬガチ恋おじさんのなれの果て、ガチ恋ゾンビとして腐った脳を頭に乗っけてウロウロしている。今回こそはと思ったが、結論から言うと今回もまた死に切れなかった。生きて帰って来てしまった。ゾンビだから生きてはいないんだけど。

死に切れなかった理由は明白である。濃厚接触キスシーンが無かったから、ではない。むしろラストシーンなどは下手なキスシーンより強烈だったので少しだけ「ぐぅぅぅ……」となってしまったのだが、しかし僕は死ななかった。どうも僕は工藤遥さんとのぼる小寺さんという映画のことをナメ過ぎていたらしい。あの映画を見て工藤遥ガチ恋勢が死ぬことは出来ない。なぜならスクリーンに映っているのは工藤遥ではなく、小寺さんだからである。

 

僕は工藤遥の演技が苦手だった。あの「バリバリ舞台でやってきました!」と言わんばかりの、客席の後ろまで届く大きな演技が苦手だった。なにより僕は工藤遥が好き過ぎた。なんの役をやっていてもその奥の工藤遥本人を見てしまう。それは女優にとって嫌なことだと思うし、とても失礼なことだと思う。僕は工藤遥の演技をどう見ていいのか分からなかった。なにを見ても「頑張っている工藤遥ちゃん」に見えてしまう自分が嫌で、ここ数年は工藤遥の演技についての感想は簡素な数行程度のものしか書いて来なかった。

のぼる小寺さんを見終わった時「あ、今回は感想が書けるかもしれない」と思った。それが監督の演技指導の賜物なのか、小寺さんという役柄のせいなのか、工藤遥自身の技術の向上のせいなのか、僕には分からないけれど、間違いなく今までで一番好きな演技だった。僕はスクリーンに映る彼女のことを工藤遥ではなく小寺さんだと認識することが出来た。

 

以下の文章にはネタバレが含まれる可能性がある。僕自身はネタバレを全く気にしない人間なのでネタバレに配慮した感想を書くのは不可能だと判断した。この映画の魅力がネタバレそのもので損なわれることは無いと思われるが、映画を見る時に僕の感想がチラついてウザいかもしれないので、これから映画を見ようと思っている方は映画を見てから読むことをおすすめする。また、「この映画を見ていないし、これから見る気も特にない」という方には是非読んでいただきたい。僕はどちらかと言えばそういう方に向けてこれを書いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

のぼる小寺さんは「ほんわかした良い感じの夏の青春雰囲気映画」ではない。確固としたストーリーと展開があって結末でちゃんと着地し、明確なメッセージがある。

小寺さんは明らかに神性を帯びている。全知全能の創造主というよりは「お天道様が見てる」という時のお天道様のような神性だ。小寺さんは太陽である。小寺さんの影響で周辺の人物が少しずつ変わっていく、というのが物語の本筋である。

近藤は小寺さんに見てもらおうとし、田崎は小寺さんのようになろうとし、倉田は小寺さんを意識するようになり、四条は既に小寺さんの影響で変わっており、それが報われる。「お天道様に恥じないように生きれば報われる。少なくとも良い方向に変わっていく」というメッセージが強く発される。同時にそれを冷笑する者は寂しい人間である、というメッセージもそこにある。

 

のぼる小寺さんの世界は、ひたむきにやりたいことをやり、真面目に生きる人物を冷笑する「寂しい人間」が出てこない世界ではない。「寂しい人間」が物語から排除されていく世界である。

「排除」という書き方には語弊があるかもしれない。登場人物の誰かがそれを直接排除するわけではない。監督や脚本によって排除されるのでもない。「寂しい人間」は小寺さんの物語に干渉できないので自然と映画にも映らなくなるというだけだ。

小寺さんには人を救う気もなければ排除する気もない。小寺さん自身が冷笑する人間について直接意見を求められるのは作中で一度きりで、その時は「ムカつかないの?」と聞かれ「なんていうかちょっと寂しい。みんな寂しいんじゃない?それで良い」とだけ答える。

太陽はただ燃えているだけで、人間を照らしたり導いたりしようとしているわけではない。人間が勝手に照らされたり導かれたりするだけである。小寺さんはほとんど何も見ない。ただ壁をのぼるだけだ。

「寂しい人間」は多くの場合、ざわざわとした雑音の中に出現する。本体が顔出しで出てくることはあまりない。明確な悪意を持って冷笑し、その姿も映るのは卓球部の無気力部員二人と、文化祭で小寺さんのお辞儀の角度をバカにする派手目な女子二人だけだが、彼ら彼女らには名前がない。

最後まで「寂しい人」の象徴として出てくるのは無気力卓球部員である。真ん中分けのメガネの男と、彼といつも一緒にいるさらば青春の光東ブクロみたいな感じの男の二人組である。彼らは出演時間もセリフも多い。主要人物以外ではトップクラスの出演時間だ。

近藤くんが頑張り始めてからは、彼らは明確に悪役になる。彼らは練習中にニヤニヤと近藤の陰口を叩く。近藤はそんな彼らから距離を置く。近藤も小寺さんに出会う前は似たようなものだったのに、彼らがそれを続けていることが極悪人のように描かれる。文化祭準備のシーンでもこの映画随一の悪役っぷりを発揮する。

彼らは最終的には照れ隠しでふざけながらではあるけれども近藤に謝罪をする。全然面白くないし、なんか顔がムカつくけれども、一応の謝罪をし握手を求める。しかし近藤は握手を拒否し、もういいよ、とだけ言い残して小寺さんの大会を見に行ってしまう。かなり強い拒絶である。別に顔がムカついたから、というワケではないだろう。その時の真ん中分けメガネと東ブクロの表情。見ようによっては「悪役に一発かましてやった」という胸スカシーンだが、僕は胸がスカッとなど全然しなかった。僕は「寂しい人」側の人間だからだ。

僕は前々から「アイドルはファンが見つめる事によって神性を帯びる幻だ」と書いているが、小寺さんとその周辺の人達の関係性は「アイドルとオタク」に似ている。近藤は正統派ガチ恋オタク、田崎は何か夢があるオタク、倉田はなんとなくオタクやってるオタク、四条は元ガチ恋で病んで他界しかけたが、それでもオタクやめられなかったら現場で彼女が出来たオタク、のように見える。

近藤がはじめて小寺さんに話しかけるのは物語が中盤を過ぎた頃だが、大した会話も出来ず、名前を覚えられていたことに狂喜乱舞する。その姿は握手会に来たオタクそのものである。

あまりにも似ているので僕たちアイドルオタクは、それがアイドルとオタクの話、あるいはそれを意識したものだとすぐに気が付く。いくらなんでもある程度意図的だろう、と思っていたら、監督のツイッターにまさにそれが書いてあった。

脚本の段階から意図的にそれは織り込まれていた。僕がこの映画を見ている時になんとなく常に居心地が悪い理由がはっきりした。 僕はその「アイドルとファン」の関係に居場所が無い人間だ。

この映画を見て、小寺さん自身に自分を投影できる人は多くないかもしれない。しかし小寺さんの周辺の人物、近藤や田崎や倉田や四条のどこかに自分を投影している人は沢山いるだろう。僕にはとてもそんな事は出来ない。

僕は小寺さんが照らさない人間だ。日陰に生きている。お天道様が見えない所でジメっと生きている。日向に出てみよう、というテーマに対して「うるせえな、ジメっとした所が好きなんだよ」と思ってしまう。

僕は無気力卓球部員である。同時に派手目な女二人組であり、クライミングウォールを体育館シューズで登ろうとして四条に逆ギレするバカであり、進路希望に「クライマー」と書いた小寺さんを否定も肯定もしない、と見せかけて否定する教師であり、小寺さんを「不思議ちゃん」だと切って捨てる雑音の中の一人である。

「アイドルとファン」という時の「ファン」は「良きファン」のことである。作中で「良きファン」は報われる。では「寂しい人」はどう生きていけばよいのだろうか。さすがにこの歳になると頑張っている人を冷笑する、というような事は少なくなった。しかし日向に出ることへの恐怖感は年々増しているような気がする。

日陰に、いや、もはや日光の届かない深海に生きている僕はどうやって太陽を見上げてのぼっていけば良いのだろうか。太陽の光がどのようなものだったか、僕は既に忘れてしまった。もし「小寺さんに出会わなかった近藤」が居たとしたら、彼は一体どうなるのだろうか。

 

さて、ラストシーンである。のぼる小寺さんを「アイドルとファンの関係」を描いたものだと解釈していると、このラストシーンはかなり衝撃的である。なにせ「アイドルとファン」が繋がってしまうのだ。「おいおいおいおい!神と繋がるってそりゃないぜ!」と思う。が、これは見当違いの感想である。

小寺さんは神ではない。小寺さんは、のぼる事が大好きで周りの目をあまり気にせず、まっすぐで真面目で少しぼーっとしているだけの、ただの女の子である。遠くから彼女を見つめている限りにおいて、彼女は神っぽく見えるだけだ。「神っぽい人間」は人間である。これについても僕はブログで何度もしつこく書いている。「アイドルとファンの映画になれば」という脚本のラストシーンがこれなのは僕にはとてもしっくりくる。意図してそうしたのかどうかは分からない。この種の問題を真面目に考えていくと似たような結論になるだけ、というような気もする。

「目の前の壁をのぼってるんだ、おんなじだね、私と」と小寺さんは近藤に言う。小寺さんはただ目の前の壁をのぼっているだけの人間である、という事が明示される。同時に、近藤がやっている事は小寺さんと同じだ、ということも示される。近藤は「だから、見てくれ!」と力強く言う。

小寺さんは近藤が渡したキリンレモンを「ハンブンコしよう」と言い、間接キスになる飲み物を近藤が飲むところを見る。かなり長い間見る。細かく表情が変わるが、あまり何を考えているのか分からない。そしてラストを迎える。特にこれといってセリフは無いが、言いたいことはハッキリ伝わる良いシーンである。

 

無気力卓球部員二人組はラストシーンの直前、近藤が小寺さんにキリンレモンを届けるために小走りで体育館を出ていく時に、後ろにぼんやりと映る。全くフォーカスされていないので本当にぼんやりとしか映らないが、卓球をしている彼らの姿が確かに映る。彼らは卓球部をやめていないようだ。

彼らももしかしたら変わるのかもしれない、とラストシーン前にぼんやりと映る彼らを見て僕は思った。近藤みたいにはなれないかもしれないが、それでも何か、近藤を通して間接的に小寺さんの影響を受けるのかもしれない。それはそうだ。彼らはまだ高校一年生である。変わる時間もキッカケもたっぷりある。

僕はここで真ん中分けメガネと東ブクロにも突き放されてしまった。そしてエンドロールで流れる写真。ジャッキー世代である僕は「お、NGシーンでも流れるのか」と思い最後まで見てしまった。最後の写真で更に突き放された。小寺さんは行ってしまった。僕は軽く絶望し、タバコを吸いに映画館の外に出た。

 

僕にも近藤にとっての卓球のようなものがあるだろうか。お天道様が照らさない深海で、それでもなにかにひたむきに打ち込むことが出来るだろうか。僕は出来るんじゃないだろうかと思っている。僕は小寺さんと並んで歩く事はできないが、出来るだけ小寺さんのようになろうとすることは出来る。真っ暗な深海で、周りに誰もいなくとも、チョウチンアンコウのように小さな光を灯すことができるんじゃないか、とまだそう思っている。「寂しい人」である僕が感情移入すべきは無気力卓球部員ではなく、小寺さんである。

 

 

 

というのがのぼる小寺さんという映画の感想文だ。少し長くなってしまった。

ところで、冒頭に「僕はスクリーンに映る彼女のことを工藤遥ではなく小寺さんだと認識できた」と書いたが、もちろんこれは映画を映画として見よう、という意志があってのことである。実は僕はこの映画を二回見ていて、一回目は出来るだけ映画として見ようとしたのだが、二回目は逆に「工藤遥の良さ」を見ようとして見た。以下には「良さ」を書く。

のぼる小寺さんの原作は読めていないのだが、原作では小寺さんはピタっとしたスパッツを着用している事が多いらしいという情報は事前に得ていた。恥ずかしい話「ケツが堪能できるぞ!」と思って見に行ったフシがある。だが映画の小寺さんはクライミングパンツを着用していた。当たり前といえば当たり前なのだが、非常に落胆した。だから靴下着用制服姿でのぼるシーンは最高だった。近藤がアイスを食べながら小寺さんをストーキングからのピーピングする場面である。

この場面は明らかにサービスエロカットである。スカートから太ももがあらわになる。もちろん絶対に中身は見えない。しかし、しかしだ。「そこに何も見えないということはつまり下に何かをはいていないという事なのでは!?スパッツなりなんなりを着用してたらそこにはなにかが映りますよね!ええ?!そうじゃないですか裁判長!」という理屈で逆にエロくなってしまっている。僕は信じている。あれは絶対に生パンでのぼっていたと。信じる者は救われる。信じろ。生パンを信じるお前を信じろ。

ラーメン屋のシーンは四条やバレー部の子も可愛くて全体的に好きなシーンなのだが、特に立膝をついてラーメンを食う小寺さんの、その膝小僧に用がある。大画面に映る膝小僧は最高である。つるんとした色の加工された不自然な膝小僧ではない。人間の膝小僧である!人間!人間の美しさがそこにはある!

ウリであるクライミングシーンにも「良さ」は詰まっている。雑音がなくなり、吐息だけがする、というシーンがある。小寺さんのまっすぐさが伝わる静かな良いシーンなのだが、僕としては「ドルビーデジタルで聴く吐息は脳に効く!忖度なしでエロい!」という感想である。

岩登りのシーン、小寺さんは倉田にネイルアートをしてもらっているのだが、ここでの「スポーツ刈りの大泉洋」みたいな部長との掛け合いも良い。嬉しそうな顔がカワイイし、のぼる小寺さんで唯一笑えるシーンである。

「ボルダリング頑張ったら小寺さんと付き合えるの?じゃあ例えば近藤君が今ボルダリングはじめて頑張ったら小寺さんと付き合えると思う?」と四条が近藤に聞く屋上のシーンも良い。僕はこの映画で一番可愛いのは四条だと思っている。四条が手にしているのが紙パックのブドウジュースという所も良い。あの頃感が非常にある。このシーンの四条のセリフは5年くらい前の自分にはもっともっと響いていただろうと思う。良いセリフだった。

そしてやはりラストシーンである。ベンチに座ってから少し音声に違和感があり、最初の方のセリフがアフレコのように聞こえる。風の音でも入ったのかもしれない、などとどうでもいい事を気にしている間にエロシーンが映し出される。ここのハンブンコ間接キスは非常にエロい。間接キス史上一番エロい。近藤が小寺さんに背を向けて飲むことでハチャメチャにエロくなってしまっている。近藤が飲んでいる顔は映らない。ただそれを見る小寺さんの顔だけが映って表情が変わる。何を考えているのかあまりよく分からない表情なのだが、どことなく羞恥のようなものを含んでいるようにも見える。そこが良い。間接キスなんていうのは、そもそもそんなにエロい行為ではない。しかしお互いが強く「エロいもの」としてそれを意識することで、どんな行為でも「エロいもの」になる事が出来る。「エロい」とはなにか、という哲学的な問いに対する一つの答えがこのシーンには詰まっている。「エロさ」とは、その行為をする者達の意識の中にある。あれはもはやセックスだった。ありがとうございました!!!

 

それはそれとして、ラストシーンの見つめる小寺さんは最高だった。この演技が僕は工藤遥の演技史上で今のところ一番好きだ。 わかんないけどさぁ、なんか泣けるじゃん。

 

7,000字も書いておいてなんだが、僕の感想なんぞどうでも良い。制服の太もも、あるいはラストの演技を見るために是非皆さまにも劇場で見ていただきたい。

工藤遥さん、映画初主演映画おめでとうございます!今後も良い映画にバンバン出てください!押忍!