Go To Dieキャンペーン

この間、臓器を一つ切り取りました。別に金に困ってブローカーに売り飛ばしたわけではありません。ガンになったわけでもありません。胆嚢にバカでかい石ができて痛んだので臓器ごと取り払っただけです。

臓器を切り取る、というと大変な事に思われるのですが、これが実際そうでもありません。入院も4日で済みましたし、痛みもそれほどでもありませんでした。なにより臓器が一つないにもかかわらず生活上の不便が今のところ手術痕の痛み以外に何もないのです。

僕も知りませんでしたし、今でもあまりよく分かっていないのですが、胆嚢という臓器はないならないでなんとかなるものらしいのです。そんなもんぶら下げておくなよ、人間、進化しろ、と思わないでもありませんが、きっとあったらあったでなんらかの良い事があるのでしょう。

ないならないで良い臓器にはなんとなく親近感が湧きます。「臓器占い」というものがもしあったならば僕は胆嚢だろうという気がします。「ないならないで困らないあなたは胆嚢。肝臓の人と仲良しになれそう!」

 

僕がまだ大学生だった頃、肺炎で入院していた祖父が「病院で死ぬのは嫌だ、家に帰してくれ」と言っているのを聞いたことがあります。戦争帰りの爺さんが弱音を吐いているのをその時はじめて見たので「そんなに病院で死ぬのは嫌なもんかね」と不思議に思いながら聞いていたのですが、今はその気持ちが少し分かります。

病院は多くの人が死ぬ場所です。でもそこを「死ぬ場所」と呼ぶのは良くない、不謹慎だ、という空気があるように思います。病院は「生きようとする場所」「助ける場所」であって「死ぬ場所」ではない、ということになっています。

もちろんそれで良いと思います。大部分の人は助かろうとして、生き続けようとして、結果としてやむなく死んでしまうだけです。医師や看護師やその他の病院関係者に文句を言うつもりはさらさらありません。大変な仕事だと思いますし尊敬もしています。

しかし現状では人間はどうやっても死にます。僕が知り得る限りの情報では、死なない人間は存在しません。現在の日本で病院以外で死ぬと、大体誰かに迷惑がかかります。「自分の所有する土地で誰かに看取られながら死に、死んだ直後にしかるべき処置をすぐにしてもらえる」という特殊な状況以外では「確実に誰にも迷惑をかけずに病院以外で死ぬ」というのはほとんど不可能です。

そういうわけで病院には「死ぬ場所」という機能が実質押し付けられています。「押し付けられている」と書くと少し恣意的かもしれませんが、僕はそう感じます。一部の特殊な診療科を除いては、病院はあくまで「助ける場所、助かろうとする場所」という建前で運営されているように感じるのです。

その建前が「死ぬ場所」としての病院の機能をあまり快適なものにしていないのではないか、と思います。

朝6時、張り付いた笑顔の看護師が「さあ!元気になりましょう!」という勢いでカーテンを開けて入って来ます。検温をし血圧を測り状態を聞いてくるのです。良く知らない人が朝からズカズカと寝室に入って来て身体を触られて、それを良く思う人がどれだけいるでしょうか。もちろん看護師に罪はありません。それが仕事です。「元気になる」ためには必要なことなのだと思います。元気になろうとしている人には嬉しい事ですらあると思います。しかし「死ぬ場所」としてはあまり快適とは言えません。

ウトウトと昼寝をしていたら医師が慌ただしく現れて慌ただしく病状や診療方針を語って慌ただしく消えていくのも、厳格に管理された生活パターンも、静脈に刺された点滴の管の痛痒さも、同様に治るためには必要ですが死ぬ場所としては快適ではありません。

個室に入る金を持っていない者には更なる快適ではなさが追加されます。隣の爺さんがクソを漏らす音と後から漂う微かな臭い、向かいの爺さんが看護師に理不尽に怒鳴っている声、斜め向かいの若者の大きなイビキや咀嚼音。健康ランドの仮眠室よりもストレスフルな環境です。

一日一日削り取られて行く金と時間にビクビクしながら、テレビを見るのにも金がかかり、Wi-Fiが無い部屋でYouTubeを見るより他ありません。偽りの明るさを演出する真っ白い壁、無駄に前向きなメッセージの書かれたポスターが貼られた洗面所、暗くて広い共同浴室、そのどれもが全て、死に向かって落ち着くようには作られていません。

ここで死ぬくらいならごみ溜めみたいな自室で孤独死した方がマシかもしれない、と僕は心の底から思いました。アパートで死ぬと大家さんに迷惑がかかる、という一点で病院で死なざるを得ないだけです。もっと歳をくって前頭葉が退化し「死んだ後のことなんてどうでもいいや」と本気で思うようになったら迷わず孤独死を選ぶのではないかと思います。そうならないように出来るだけしたいとは思っているのですが、そのために何ができるのか、あまりよく分からないのです。

もちろん「痛みが緩和される可能性が高い」という良さが病院にはあります。おそらく僕は今孤独死しかけたら病院に行くと思います。今の僕は痛みが怖いから。

祖父は結局病院で死にました。安らかな死に顔でしたが、最後まで家に帰りたがっていたらしいと通夜で聞きました。そりゃそうだよなあ、と今は思います。

 

この話は「安楽死させろ」という話に直結するわけではありません。ただ病気等で死なざるを得ない状況になった時にもっと落ち着いた環境で死ねるといいのになと僕は思った、という話です。できることならそれが孤独な人間にも提供されるようになるといいな、と思った、という話です。既に書いたように現状では落ち着いた環境で死ぬには「看取ってくれる人」が必要だからです。

安楽死は本当に安楽なのか?尊厳死に尊厳はあるのか。死んだ人に聞いてみないとわからない(だから安楽死については慎重に考えよう)」という意見があります。僕は安楽死にはどちらかというと賛成ですが、これはしっかり考えるべきだと思います。

この意見は逆にも同じことが言えます。安楽死は本当に安楽だった!という人や、尊厳とはこのことよ!と思った人の話も同様に聞くことができません。分からない、と言うしかありません。別に安楽死ではなくても本当に死の間際に何を思うのか、死んだ後に聞くことはできないのです。

死んだ後どころか自分が余命わずかだと知った時にどう思うのかすら個人レベルでは分かりません。分からないことを分からないこととしたままそれに備えるのは難しいことですが、少なくとも死に対してはそうするしかないと僕は考えています。

 

少し話が逸れますが、看護師はアイドルです。アイドル的な存在として見ることが可能である、という意味で看護師はアイドルです。アイドルを「心の支え」「生きるために必要なもの」として扱うオタクのように、患者が看護師を心の支えや生きるために必要なものとして扱う事が可能です。

看護師を理不尽な理由で責めたり、ほとんど口説いているような絡み方をしたり、ナースコールを連打したりしていた同室のジジイが、お気に入りの看護師に心付けを渡そうとして断られているのを見ました。

僕はそれを見て「厄介オタクみたいだな」と思いましたが、すぐに思い直しました。「厄介オタクみたい」ではありません。それは厄介オタクそのものです。彼はその看護師さんの厄介オタクだったのです。

当の看護師さんにとってそれはウザい事この上ない迷惑なことだと今の僕は思うのですが、どうも将来の自分がそのジジイのようにならないという自信がありません。心の支えをそこにしか見いだせない状況に追い込まれたら僕も同じことをしてしまうのではないか、という恐怖があります。

何かを心の支えにすると、生きていくのが少し楽になります。同時に死に向かうのも少し楽になるんじゃないかと思うのです。心の支えは生きていく時だけではなく、死んでいく時にも役に立ちます。

 

生きていくには大きな何かが必要だと思っていました。守るべき人とか達成すべき使命とか、そういう漫画みたいな何かが。しかしそうではないのかもしれない、と最近は思います。例えば、好きなアイドルのバースデーイベントがある、くらいの事で全然人は生きていけるし、死んでいけるんじゃないでしょうか。

 

工藤遥のイベント中に奥歯にくくりつけた薬をかみ砕いて痛み無く死に、死体はそのままキラキラと消失してくれるのが今のところ僕の理想の死に方です。しかしどうも僕が生きている間にそれができるようなことには社会的にも技術的にもならなそうだ、という気がしています。もしそうだとするならば、工藤遥のイベントでだけは死なないように健康には十分留意する必要があります。

工藤遥のイベントを「死人が出たいわくつきのイベント」にするわけにはいかないのです。正直な話、これはかなり面倒です。別に健康に気を使って長生きなどしたくありません。とはいえ、これが生きる目的なのだから仕方がありません。僕は工藤遥が僕に姿を見せてくれている限り、できるだけ健康体で生きねばならないのです。いつ工藤遥のイベントがあっても良いように。

 

退院後の検診で受けた血液検査の値は全て基準値に収まっていました。「その体型で酒とタバコをやっていてその年齢で、となるとなかなか居ないよこれは」と医者は苦笑いで言いました。現代医学よ、見さらせ、これがガチ恋健康法じゃい!


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