Stay home and die

近所に小さなビデオボックスがある。この御時世、休業しているのが普通の苦しい業種だ。あまりに世間的にノンエッセンシャルである。ところが通りがかりに見てみると、その店は休むどころか半額セールを行っているようだった。大きな文字で「半額セール中!」と看板に張り出してあり、傍らではノボリに印刷された三上悠亜が元気にはためいていた。心なしかいつも以上の笑顔に見える。僕は「この店、イカれてんのか」と思いながら吸い込まれるように入店していた。僕はイカれてる店が好きだ。

吸い込まれるようにそこに入ってしまったのにはもうひとつ理由があった。ちゃんとしたVRゴーグルを試してみたかったのだ。

「ステイホーム、ステイホーム」と偉い人達がバカみたいに連呼する世の中で僕のような人間の救いになるのはVRエロ動画なのではないか。そう考えた僕はなけなしの金で格安VRゴーグルを買った。数千円のVRゴーグルで、10円セールで買ったVRエロ動画を家賃2万円の部屋で再生した。

僕の期待はガラガラと音を立てて崩れた。確かに立体感はある。バイノーラル録音された音声は耳をくすぐったくさせる。首を動かすとそちらの方まで見える。だがそれだけだった。格安携帯の画面は近くで見ると粗さが目立つ。操作性も悪い。僕の考えていた「没入感」とは程遠い、「ちょっとしたギミックが搭載されているエロ動画」程度のものでしかなかった。

僕はそれを「機器の安さ」のせいだと思った。数万円するVRゴーグルなら、もっと没入できるのではないか。インターネット通販サイトで高級VRゴーグルを指をくわえて眺めた。トランペットを欲しがる少年のように。

しかし僕は少年ではないし、欲しがっているのも楽器ではない。僕は中年のおじさんであり、欲しがっているのはエロ動画再生機器である。それを買い与えてくれる神様みたいな人物はこの世に存在しない。10万円の給付金の事が一瞬頭によぎったが、僕の10万円はすべて生活費に消える。 政府がVRゴーグルを支給してくれる事もないだろう。どれだけゴリゴリの「人権派」に相談しても「それは無理なんじゃないかなあ」と言われる案件だと思う。

それでも僕は諦めきれなかった。一度体験してみたかった。高級ゴーグルで僕の思う、あるいはそれに近い没入感が得られるのならどこかから金を借りてでも買おうと思っていた。僕はビデオボックスの胡散臭い店員にVRコースで入りたいと意気揚々と宣言した。ほかのコースより倍近く高いが、なにせ今日は全コース半額だ。全く、自粛不況様様である。

一畳と少しくらいの独房のような部屋に入った僕は、早速VRゴーグルを手に取った。誰が使ったか分からない、激烈に汗臭い高級VRゴーグル。ケッペキでなくてもこれを装着するのは避けたいだろう。僕ですら少し引くほどの臭気だった。当然リスクはある。しかしそのリスクを負うに値する挑戦だと僕は信じていた。僕は何の躊躇もなくそれを装着し電源を入れた。

1時間後、僕はむなしさの底に居た。一畳半の独房でうなだれていた。高級VRゴーグルは確かに格安VRゴーグルとは違った。視聴に耐え得る画質だった。立体感も格段に上がっており、そこに存在しているように見えなくもなかった。音声にも問題はなく、操作性も比較的良かった。しかし、なんなんだこのむなしさは。賢者タイムにしてもあまりにむなし過ぎる。

画質や操作性にも確かに問題はあるし、対象が近付き過ぎた時の見え方はリアルではない。まだまだ進化出来るはずだ。でも、このむなしさの根源はそこではない。メインボタンを押してシークバーが出た時、早送りをしている時、視線ポインタで作品を選んでロードしている時、僕はそこに「没入」していない。エロ動画の「外」に居る。僕はエロ動画の「内」に入りたいだけなのに。

放心状態でビデオボックスを出ると外はもう夕暮れだった。周りを畑に囲まれた駐輪場から自転車を出してヘコヘコ漕ぎだした時、隣にあったゲームセンターが潰れているのに気が付いた。入口にベニヤ板が打ち込まれ、簡素な張り紙が貼ってあった。確か最近まで営業していたはずだ。

現在の人類の力では僕のような一般人がバーチャルな世界に没入することは出来ない。この腐敗した世界で、この脆弱な身体を引きずって、僕らは生きていくしかないようだ。少なくとももうしばらくの間は。

 

 

現状の「ステイホーム」が長期間続くと経済的な死に至る人々がいる。僕もそうだ。既に現段階で死にかけている人や死んでいる人もいる。そういう人にとって「家にいろ」という要請は「家にいろ、そして死ね」という要請と同じである。

経済的な困窮が原因で死ぬ人間が出ても仕方がない、疫病とそれに伴う医療崩壊やその他諸々で死ぬ人間を減らす方が重要だと判断した、と言うのならばそれはそれで尊重する。

しかし、実際には「家に居ろ」としか言われない。これにはどうも納得がいかない。これくらいの自粛要請で経済的に死ぬのは「自己責任」だというのなら、偉い人の「自己責任」で「家にいてください、それで死ぬようなら死んでください」ときちんと言うべきではないか。

1か月程度の自粛で死をすぐそこに感じるのは社会的にかなり弱い人間がほとんどだろうが、これが半年、一年と続けば「中流」の人達にも確実に影響が出る。どこかで自分の好きなもの、生活に影響するものが潰れる可能性を想定しておくべきだと思う。

 

アイドルを含め、芸能人の「待っていてください」が段々と白々しく感じられるようになってきた。人が集まるようなイベントやライブの再開は目処が立たず、夏のイベントが開催されるかも怪しい。おそらく、今年中にどうにかなる可能性をなんとか模索している、ぐらいの感じなのではないか。

握手会などの再開は更に先、もしかしたらもう二度と行われない可能性もある、というような状況に見える。もう「待っててください、必ず戻ります。それまで耐えましょう」などと言っている場合ではないのではないか。

 

この世界は元々怖い。新型コロナ以外にも人を殺すウィルスはたくさんあるし、疫病以外にも我々が死ぬ原因になるものは自宅の外に沢山ある。「ステイホーム」は新型コロナだけへの対策ではない。この世界に殺されないために有効な対策のひとつである。もちろん、死ぬまで家に居続ける事が可能ならばの話だが。僕には不可能だ。

 

いくつかブログに書きたい事があったので、3月後半に予定されていた工藤遥のソロライブとファンクラブイベントが終わったら書こうと思っていたら、よくわからないうちに全部中止になって世の中がギスギスしはじめた。ほとんどパニックと言って良い状態になっている人物がたくさん居る。

どんな思想を持っていて、どんな理想の社会を描いていても良い。しかしパニック状態で出す結論は支離滅裂であまり信用できないことが多い。「医療崩壊を防げ」も「経済的に死ぬ人を減らせ」も「ウィルスを伝染させるな」も、どれも大事だがその全てを完璧にこなす方法をすぐに実行するのは難しい。なんとか現実と折り合いをつけてやっていくしかない。他人を監視して「間違っている」ものを殴り殺す事にあまり意味があるとは思えない。パニックにならずに平静をできるだけ保ち、現状を少しでも良くしていく方法を考え、しかるべき所に訴えていくしかないのではないか。それでどうにもならない事が多すぎるから結局パニックになってしまうのかもしれないが。

 

どうも僕はこの状況への耐性が高いようだ。ほとんど不安がない。そもそも僕はこうなる前からもっと不安を抱えていなければならない生活をしていた。「将来への漠然とした不安」というものがあるが、僕にはこれはない。なぜなら将来に希望がないからだ。

不安を抱えるにはそれとセットになる希望が必要だ。失敗への不安は成功への希望から湧き出てくる。確実に失敗するなら不安にはならない。そこにあるのは不安ではなく恐怖と絶望である。神の救済に希望を抱くから不安になるのだ。不安を制御したいのなら希望も同時に制御しなければならない。

不安を制御するのは案外簡単だ。不安をなくすために「わるいこと」をすべてなくそうとする人々がいるが、それは筋が悪い。生きていて「わるいこと」がまったくない状態になることはほとんどない。そもそも「わるいこと」が本当に悪い事なのかどうか精査しなければならない。これは相当難しい仕事である。そうではなく、自分の希望を制御すれば良い。こちらの方がずっと簡単だ。

 

ちょっと特殊過ぎて参考にならない、絶望などしたくない、希望が無くなるなんてまっぴらごめんだ、と思われる方もおられるかもしれない。安心して欲しい、希望を完全に失くすのは難しい。絶望をナメてはならない。

僕にも完全な絶望はできていない。たまに小さな希望が見えて不安になる時がある。でもそれを小さな希望と小さな不安にとどめておくことが出来る。小さな希望は良い。小さな希望なら見えなくなってもショックが小さい。新たな小さな希望を見つければよい、という気持ちになりやすい。失敗した時にどうなるのかも想定しやすいので、もし失敗した場合にどうすれば良いのか、具体的な対策が見える事が多い。

不安なこと自体は悪いことではない。不安に押しつぶされてパニックになるのが良くないだけだ。現在不安なあなたにはなんらかの希望が見えているという事である。僕はその精神状態が羨ましい。僕は不安でなさすぎる。

 

もう世界は元には戻らない、と絶望しているかのような意見を最近見かける。これも僕にはよくわからない。世界は最初から元には戻らない。先がどうなるのか誰にも分からない。少なくともそういう事になっているし、僕はそう思って生きている。今回の件はそれがごまかしようがないくらい大きな変化になる、かもしれない、というだけの事である。心配しても仕方がないし、なるようにしかならない。できるだけ自分が良いと思う方向に行くように、何かできることがあればやるだけだ。

 

工藤遥は3日に1回インスタグラムでルービックキューブをする人になった。なんなんだそれは。生の工藤遥を見られない日々が続くことには僕は慣れている。ありがとう、ルパパト、あなたのおかげです。これくらいでは全く動じない。

1年後か2年後か、いつになるか分からないが工藤遥のイベントがまた開催されたら、僕はごく普通に工藤遥オタクとしてそれに参加するだろう。参加できないとすれば僕が死んだり動けないほどの重病になったりしている場合だけだが、今のところ人間はいつか弱って死ぬ。それがいつになるかは誰にもわからない。僕はその時に死んでいなければ誰かに金を借りてでも行く、ただそれだけだ。それが僕の小さな希望のひとつである。

小さな希望をいくつか持っておくと良い。オススメは明日のメシ代が残ること、できるだけ安全な場所で眠れること、身体のどこかに激痛が走らないこと、などだ。つまり「健康で文化的な最低限度の生活を送ること」である。

勘違いして欲しくないのは僕は「大きな希望なんて持つな」と言っているわけではない。もしあなたが今、不安に押しつぶされそうでまずい状況になっているのなら、小さな希望に目を向けることで押しつぶされる可能性が少し下がるよ、と言っているだけだ。

 

人は家にいたり、外に出たりして、そして死ぬ。誰かに要請されなくても、人間が生物である限りそうである。死ぬまでの間、出来る事をやりたい。