女優工藤遥との握手会に向けて

日々生活出来るだけの小銭を稼いで酒ばかり飲んでいるうちに、工藤遥がアイドルを卒業してから4ヶ月が経った。その間に工藤遥はぐんぐんと前に進み、僕は飲酒後に倒れて救急車で搬送され脳に腫瘍が見つかった。「アイドルのあの娘が居ない世界でどう生きて行けば良いのか」などと言う僕の自分勝手な思いを熟成させる暇もなく、工藤遥は卒業後すぐさまルパンイエローになりブログを開設し、そしてInstagramを始めた。そこにはめくるめくきらびやかな世界が広がっていて僕は目をやられてしまった。世の中は僕なんかには関係なくグリングリンと回る。別に工藤遥に限った話じゃない。この世の全てが僕の思いとは関係なく回っている。

今では工藤遥の出演するテレビやブログやInstagramは片目でしか見られなくなっている。そんな廃人のような生活をしている折「工藤ヲタは工藤遥と結局どうなりたいのか」というテーマのブログを目にした。これは僕も昔から考えているテーマだったので「そうだ、ブログでも書いてみよう」という気になった。バスツアーの後にあったイベントである最後の個別握手会、ソロイベント、卒業公演について書くつもりは今の所あまりない。別に自分の中だけに留めておきたいから、ということではなく単純に時間が経ちすぎていて詳細をあまり覚えていないからだ。ソロイベントと卒業公演に関しては映像が発売されたらしいのでそれを見たら書く気になるかもしれないが、今の所見ていないし映像も持っていない。

 「工藤ヲタは工藤ハルちゃんとどうなりたいのか」というタイトルのそのブログを読んで僕は僕が「工藤ハルちゃんとどうなりたいのか」を書いてみたいと思った。この種の問題に関して僕は自分以外の人がどうなのかを考えるような事はあまりしない。他人の考えに興味がないわけではなく、これは一人一人に個別の問題であって自分の考えに向き合うしかないと思っているからだ。この問題に全員に共通する「正答」や「理想の状態」というものは無い。この問題を抱える一人一人が「これならなんとか死なずに生きていけるかもしれない」という状態を見つけるしかないのだ。

そのブログには「工藤遥と結婚したいと言っている男性は正攻法(業界関係者などになって出会う)を用いて結婚を目指すべきだ」と書いてあった。僕も基本的には同意見だ。「好きな人と結婚したい」という思いで起こす行動は人生に良い影響を与える可能性が高い。少なくとも悶々とした気持ちを抱えて酒ばかり飲んで救急車で運ばれるような生活を送るよりはずっと良いだろう。ただしそれは「本当に結婚したい」ならばの話だ。僕はある時期から「工藤遥と結婚したい」と言うのを意識的にやめている。「自分は本当に工藤遥と結婚などがしたいのだろうか」という疑念が晴れないからだ。

「結婚したい」と僕が、または僕に近い思想を持ったオタク(どこかに存在すると信じたい)が言う時、それは「法的に婚姻関係になりたい」という意味ではない。ただ「好きなあの娘とずっと一緒にいたい」という気持ちの事だ。我々は余りに恋愛経験や人生経験が乏しく他の言葉を知らないので「結婚したい」などとすぐに口走る。しかし結婚のなんたるかどころかまともに女性と付き合うという事すらよくわかっていない。「好きなあの娘とずっと一緒にいる」という事自体がどういう事なのか全然わからないから世間的に通りの良い「結婚」などという言葉を安易に使っているだけだ。

我々が「結婚したい」と言う時、それは「永遠に誰かに無条件に受け入れられたい」というおぞましい思いをオブラートに包んで放っているだけに過ぎない。工藤遥が良く出来たプロジェクションマッピングであっても構わない、というよりも僕が望んでいたのは良く出来たプロジェクションマッピングである事だ。良く出来たプロジェクションマッピングを自分好みにカスタマイズして一生それと添い遂げるのが僕のしたい事なのではないか。そう思い至った時にあまりの醜悪さに自分に吐き気がした。

とにかく醜悪な気持ちだ。誰かを無条件に受け入れたい、ではなく誰かに無条件に受け入れられたい。他人が主体の願望は醜い上に精神に良くない。そういうわけで僕は工藤遥とどうなりたいのか、という事を考えるのを半ば放棄した。あえて言えば「僕は工藤遥に永遠に無条件に受け入れられたかった」という事になる。もちろん工藤遥が人間である以上それは不可能だ。僕は工藤遥は人間だと思っている。

中島らもは「失恋について」というエッセイで「永遠の片想い」は「幸福」と呼んでさしつかえないかもしれない、と書いている。「得恋」してしまうとそれを失う予感に恐れおののく。誰かと恋に落ちてその恋が叶ったが最後「生き別れる」か「死に別れる」しかないからだ。永遠の片想いのみが幸せな結末を迎えられる。ただそれは「遠くから相手の幸せを願う」ような片思いである事が条件だ。「アイドルへの恋」の不幸は一方的に「得恋」してしまう事にある。それが「片思い」であるならば幸福と呼んでさしつかえない状態だというのに「片思い」のままでいられないのだ。

僕は工藤遥がアイドルを卒業する卒業ロードで工藤遥に受け入れられている、と感じてしまった。もちろん男としてではない。もしかしたら同じ人間としてでもないかもしれない。しかしそれが何としてだろうが、受け入れてもらっている、少しは受け入れてもらった、という気持ちになった。僕はそこで「得恋」してしまったのだ。工藤遥が愛のカケラを返してくれたという気持ちになった。それがどんなに小さなカケラであっても愛が返って来た事に変わりはない。もっと言えば、それが勘違いであったかどうかすら関係ない。実は工藤遥は一欠片も僕に愛を返してなどいなかったという事実が仮にあったとしても関係ないのだ。これは徹頭徹尾僕の中でだけの問題だからだ。僕がそう感じた時点でそれは「得恋」になってしまう。僕は山口のホールラストコンサートで、岐阜の個別握手会で、最後のソロイベントで、「得恋」してしまった。その後はもう「幸福」な「永遠の片想い」などでは到底ない。

 

アイドルに「得恋」してしまったガチ恋オタクのその後は悲惨だ。具体的に言うと「そのアイドルを目にする度に生き別れの苦しみを味わい続ける」ことになる。ハッキリとした「別れ」が来ないばかりに永遠に別れの苦しみを味わい続ける。この苦しみを終わらせるには「失恋」するしかないのだがオタクに「失恋」する権利は与えられていない。「疑似得恋」はビジネスになっているが「疑似失恋」をする方法は誰も与えてくれない。僕は工藤遥がテレビに出る度、ブログを更新する度、Instagramに動画をあげる度に「生き別れ」の苦しみを味わい続けている。毎日毎日その度にフレッシュな苦しみが僕に提供されるのだ。工藤遥に永遠の片思いをする権利を僕は失ってしまった。永遠の生き別れの世界に僕は囚われている。