さよなら僕の恋心

2018年10月27日、工藤遥が19回目の誕生日を迎えた日の夜、僕は都内のレンタルルームで女性を待っていた。「推しメンの誕生日にはケーキを買ってお祝いをする」みたいな文化があるが、僕はどうもアレには馴染めない。それが本気のモノであれ自嘲気味のネタ風味なものであれ、僕の気持ちの乗せどころがあの行為には無いと感じるからだ。飲みすぎて倒れ知り合いのマンションのソファで目を覚ましたその日の昼「ああ、今日は風俗に行こう」と見慣れた天井を見上げながら思った。それが僕にお似合いの過ごし方だ。

レンタルルームで数分間そわそわしているとドアがノックされた。扉を開けるとブレザーを着た若い女性が立っており、僕は3畳ほどの狭い部屋に彼女を迎え入れた。「ハロウィンで街がざわついててウザい」というような事を言いながら女性はコートを脱ぎ、ベッドに腰掛ける僕の隣に座った。漫画喫茶のフラットシートのような安っぽいベッドからビニールに肌が擦れる音がした。少し雑談をしてから彼女が慣れた手付きでタイマーをセットしたその瞬間、僕は「ありがとうございます」と言いながらおっぱいを触った。なにそれ、と彼女は笑った。僕は風俗でおっぱいを触る時、心の奥底から「ありがとうございます!」という気持ちが湧き出し、時にはそれが声に出てしまう。メチャメチャ苦しい壁だってふいになぜかぶち壊す勇気とPOWER湧いてくるのは風俗で揉んだおっぱいのせいだったりするんだろうね、ア・リ・ガ・ト・ウ・ゴ・ザ・イ・ます!という気持ちが全面に出る。その日も感謝の気持ちでおっぱいを揉んでいると彼女が言った。

「乳首つねって…」

誇り高き素人童貞として生きて来た。「風俗で相手をしてくださる方には最大限の敬意を払え」というじっちゃんの教えを頑なに守り、風俗に行く日の朝には二度くらいシャワーを浴び、爪切りを欠かさず、基本プレイに忠実でオプションに含まれていない行為には一切及ばない。退店する際には「どうもお世話になりました」と女の子と黒服に深々とお辞儀、相手をした方には「体毛が濃かった」「勝手にイったから楽だった」以外の印象を一切残さず風のように去る。そしてもう二度と同じ女の子は指名しない。だって、好きになっちゃうから。それが僕が15年風俗に通って身につけたプレイスタイルだった。じっちゃんの名にかけて僕は紳士たろうとして来た。19歳の夏、土浦のファッションヘルスで太った黒ギャルに無断で童貞を奪われてからずっとだ。

そういうワケで僕は非常に戸惑った。乳首つねりは基本的にNG行為である事が多いからだ。とはいえ相手からの要求を断るのも紳士としてはどうなのだろうと思い僕は乳首つねりに挑戦する事にした。全く力加減が分からず、とりあえず弱めにしていたところ「もっと強く」とすぐに要請が入った。大丈夫だろうか、ポロっと取れたりしないだろうか。心配しながら力加減を調整する。職人のような顔で乳首をつねっていると性欲はどこかへ消え、ただ乳首をつねる事のみに集中していた。

10分ほどそうしていただろうか。突然、もう一人の僕がプレイルームの天井から乳首つねり職人の僕と身体をくねらせる彼女とを見ているビジョンが頭の中に浮かんだ。自分は一体なにをしているんだろうという気持ちがフツフツとわいた。これはもはやただの乳首つねりではない。そう、これは礼拝だ。

 

アイドルオタクを辞めてそれまで一度も行ったことの無かった風俗にドハマリした知人がいる。ある時彼は「風俗は握手会と同じだ」と言った。僕にはその発想は無かったが、その発言を聞いた時「確かにそうだ」と思った。

「アイドルの握手会なんて風俗みたいなものだ」などという話ではない。「風俗嬢はアイドルなのだ」という話でもない。「同じ」なのはそこに通う僕達、それと場所が持つ機能だ。 握手会も風俗も「礼拝空間」としての機能を有している。

僕はアイドルへの恋について「幻に恋をしていた」と書いた。それは祈りに似ていると思っていたが違う。幻から逃げ出してから気が付いた。「幻への恋」は祈りそのものだったのだ。

僕は工藤遥が作り出した幻から好かれたいと思った。それは祈りだ。工藤遥を介して愛されていると感じたいと願った。これも祈りだ。工藤遥と意志の疎通を図りたいと思った。これも祈りだ。その祈りを言葉にして、あるいは言葉にせずとも強く意識する場所である握手会や風俗のプレイルームが礼拝空間でなくてなんだというのか。もちろん「握手会や風俗にそういう気持ちでは通っていない」という方も居るだろう。でも「祈りの対象」を必要とする人間、孤独な中年男性及びそれに準ずる者達にとって間違い無くそこは「礼拝空間」だ。少なくとも僕にとってはそうだった。

アイドルへの恋は祈りだ。風俗嬢への恋も祈りだ。僕達は彼女達が職業上作り出した幻に祈っている。祈りの大部分は多くの祈りがそうであるように叶うことはない。それでも僕達は祈らずにはいられない。祈る対象の無い日々は叶わない祈りを捧げ続ける日々よりも苦しいからだ。

「アイドルに祈る」ことについては賛否あるかもしれない。偶像を崇拝する事に拒否反応を示す人は沢山いる。僕は虚像を作り出す事自体は悪い事ではないと思っている。幻を思う気持ちが暴走し、幻の根源に危害を加えることは悪い事と言えるかもしれないが、幻を見ることそれ自体は善くも悪くも無い。そもそも他人に全く幻を見ない事など不可能ではないのか。人は多かれ少なかれ他人に幻を見ている。そう考えると、もしかしたら「全ての恋は祈りだ」とも言えるのかもしれない。しかし僕にはそれは出来ない。「普通」の恋の経験や知識が著しく乏しいからだ。アイドルと宗教や信仰や崇拝の話を詳しくする力も今の僕には無い。現在の僕が書く事が出来るのは僕の事だけだ。

 

工藤遥の誕生日の約一ヶ月後、神保町で工藤遥カレンダー発売記念握手会が行われた。工藤遥と握手をした帰り道、僕は酩酊して記憶を失くした。何を話して何をしたのか全く覚えていなかった。僕は彼女にまた何かを祈りそうになってしまったのだと思う。意識を断絶しなければならないと感じたのかもしれない。泥酔しようと思ってしたワケではないが、そう考えるしかないように思う。

翌日、意識を取り戻した僕はあの日と同じソファで天井を見上げていた。不思議と二日酔いは無く、ただ記憶だけがスッポリと抜け落ちていてまるでタイムトラベルでもしたような気分だった。 その日は知り合いのガチ恋おじさんふちりんさんが姫乃たまさんという方のトークライブに出演してガチ恋について話すというイベントが予定されていた。酒を飲むために遊びに行ったら僕も少し話す事になってしまった。非常に楽しいイベントで、程よく酔っ払っていたのであまりよく覚えていないのだが、姫乃たまさんの言っていた事でいくつか印象に残っている言葉がある。彼女はまず「私はそこまで人を応援出来ない、入れ込めない」というような事を言った(と思う。間違っていたら訂正する)これは印象に残った。何故なら僕もどちらかというとそういう人間だからだ。僕は僕がこんな風になるなんて想像もしていなかった。これは今になって思うのだが、僕があんなに入れ込めたのは、その対象が人ではなく幻だったからではないかと思う。

もう一つ印象に残っているのは(こちらは先程よりも正しく覚えている自信があるが間違っていたら訂正する)僕やふちりんさんに対して「自分を客観視できるガチ恋オタクなんだね」というような事を仰っていた事だ。姫乃たまさんは明らかにポジティブな意味で使っていたのだが、僕はどうもその言葉をストレートに喜ぶ事が出来なかった。

僕は「自分が見ているものが幻だ」という事に早い段階で気が付いてしまった。幻でない「工藤遥」が見たくて苦しんでいたような気がする。何度も言うが工藤遥は人間だ。だから完璧な幻は作れない。幻の隙間から垣間見える「本当の工藤遥らしきもの」を目を皿のようにして探した。それを見つける度に僕は歓喜し、彼女の作り出す幻はその都度強化された。垣間見える(ような気がしていた)「本当の工藤遥らしきもの」を自分の都合の良いように解釈し幻に取り込んでいくのだ。これは非常に危険だと頭では分かっていたが止められなかった。それに夢中で他の事はほとんど考えられなくなっていたからだ。それが「祈り」でそれが「幻」だと気が付かないほうが少なくとも主観的には楽しく生きられる。しかし、僕はもうそれを頼りにする事が出来なくなってしまった。

「風俗は握手会と同じだ」と言った彼は風俗嬢に恋をした。僕は彼のことを心底羨ましく思う。僕は祈る対象を失くしてしまった。

 

同じ時期に脳腫瘍を切り取ってから半年の検診を受けた。MRI画像に写った僕の脳からは脳腫瘍がキレイサッパリ無くなっていた。残ったのは頭の傷だけだ。医者にも「ここまで経過が良好なのは珍しい」と言われた。

さよなら脳腫瘍、そして僕の恋心。切り取られた腫瘍に僕の恋心の全てが詰まっていたのではないかと思う。僕はもう何も信仰出来なくなったのではないか、祈りを捧げる事が出来なくなったのではないかと不安になる事がある。僕はもともとそういう人間だったのだろう。何も信じずに生きていける強さを持った人間などではない。何かを信じて裏切られるのを恐れる弱い人間だ。子供の頃から何かを強く信じている人を見る度に疑問に感じていた。なぜそこまで何かを信じられるのか。何かを信じるという行為は不安定な足場でそれに体重を預けるようなものだ。信じているそれが崩れたら床に叩きつけられる。足場からも落ちてしまうかもしれない。そしたら痛いじゃないか。そんなのは嫌だ。そう思って生きていたら、足場そのものが崩れ落ちて底の見えない谷底に落ちてしまった。何かを信じていようがいまいが落ちる時は落ちるものだ。

落ちた先の谷底はしかし、そんなに悪くない。痛いのは痛かったが少なくとも死にはしなかったし、谷底の足場は固くて広い。これ以上下に落ちるのは今の所は難しそうだ。辺りは真っ暗で何も見えず誰も居ないが寝るには最適の場所である。少し眠って起きてから考える事にする。